20120314 A torinói ló
Béla Tarr(タル•ベール)監督の「ニーチェの馬(邦題)」を観た。
あの吹き止まない風
風が風となる時、それはどこかへ吹き抜けていく動きであるはずが
それが留まりに沈み込むような
恐れている人にとっては、一番恐れていることの穴へ吹き込もうとする時
今も聞こえるこんな音が聴こえるのかもしれない。
決して「自分」の記憶にこの映画を引き寄せるつもりは無いが
小さな頃、眠れない寒い夜、木造の家をきしませる音、風の音を聴いていた。
それは、普通、世界の拡がりが外に開いていくものが
多分「ぼく自身」の内に裏返って開いていく、出口なしに、そういう経験のように思う。
そこに誰かがいてもいなくても、孤独は常にその深みだけをのぞかせる。
慰められたりあたためられたりすることのない、「孤独」
多分、ぼくはそのことをずっと孤独だと思っている。
それが晴れやかである、と思っているひとはどれほどいるのだろうか?
20120211 パウル•ツェラン詩文集
あと一ヶ月で、東日本大震災から一年が経ちます。
震災後、このブログでも「数々の損失の中でただそれだけが ー言葉だけがー 手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。」とはじまるパウル•ツェランのブレーメン文学賞受賞講演を引用しました。
そして今月、彼の詩集が出版されました。
あれ以降、ツェランのあの言葉にどう寄り添っていけるだろうか、と思いつづける中で、こうしてこのタイミングで出版されるということは、やはり、震災直後から準備されてきたことだと思いますし、ぼくがブログをかいた頃に何か近しいところで思う人がいたんだと思うと、ささやかながらもすくわれる想いがします。
帯にあるように、「ともにある」こと
「あなた」とともにあることへの気づかい
「あなた」に耳を澄ませること
ビクトル•エリセの震災にむけての短編での台詞
”死者からの問いかけ”
わたしたちが問いとして応えること
ことばの前で戸惑い、よろめく、その場所から
ことばとして踏み出すという指向そのものとして留まること
このことが、よくある悼むことばよりも
「あなた」を悼むことに近いことになるのではないのでしょうか
交わしたことのない約束が
果たされえないままに約束として。。。
20111021 砂04
砂 ひとつの重力
そして無数の重力
その重力の上にわたしたちは留まる
わたしたちの重力をもって
日時計の影は砂を湿らせ
そしてその湿った時間を飲み干す
その「湿った」という重力を飲み干す
もう帰ることはないだろう
ただ還ることだけがゆるされて
その湿った砂に夜が、ことばひとつの夜が
20110914 「3.11 A Sense of Home Films」 金峰山寺•奉納上映会
9.11から10年、今年の3.11から半年という節目の2011.9.11に、奈良吉野の金峰山寺にて「3.11 A Sense of Home Films 金峰山寺•奉納上映会」があったので行ってきました。3.11ということからもわかるように、震災をうけて、世界の21人の監督がそれぞれ「A Sense of Home」というテーマをもとに3分11秒の映像をつくったそうです。21作品を観て、それぞれの監督がテーマを「家族」と「そうでないもの」として扱った2つに大きく別れたように感じました。
「家族」をテーマとして扱っていなかった監督の中で特に印象に残ったのは、Jonas Mekas(ジョナス・メカス)とVictor Erice(ビクトル・エリセ)でした。ジョナス・メカスははじめて観たのですが、映画が詩であること、またはその接近や触れそのものであるように感じました。例えば「詩的」とは俗耳に入りやすい言葉だと思いますが、つまりそれは「詩」には至っていないことでもあるということでもあります。それは隔たりと言うよりも、次元を異にしていることで、距離や遠さでは測りようのないことです。そこに個人的には絶望や孤独を感じるときもあり、一方でその孤独から翻ってそこでどうしようもなく繋がることになる地点だと思います。それはとても希有なことで、そのことを「友愛」と言ってもいいのでしょうか。ビクトル・エリセが上映前の話で「友愛」を口にしたのは、単なる助け合いや思いやり、ではなくそのことを言っているように感じました。
そのビクトル・エリセの3分11秒は、室内でアナ•トレントがmacbookに向かって話す、というものでした。その内容としては広島のこと、そして原発のこと、と社会的ともとれるような話が続いていたのですが、最後に言った「死者からの問いかけ」というその言葉、その唐突さ、跳躍にその言葉のもつ普通の意味での「重み」を覆うような、放射する光の「軽み」を感じました。そうして、死を生のうちに呼ぶこと、聴くこと、そのこと自体が生と死をそれぞれに行き渡らせ、開かれた純粋なつながりになるのでしょう。生と死を分つことなく。
生の柵内、その内にのみ留まっていること、そのことに自覚がない人が多いと個人的には感じます。しかし、音楽とはそこではなく、先の「生と死をわかつ場所ではない、開かれた純粋なつながり」にはじめて、いつもはじめて響き続けているのではないでしょうか?
そこで私たちははじめて歌われるのではないのでしょうか?
歌が存在することになるのではないでしょうか?
















